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[書評]のメルマガ vol.221
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■■ [書評]のメルマガ     2005.7.16発行

■          vol.221
■■  mailmagazine of book reviews   [ 中井正一再読 号]
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[CONTENTS]------------------------------------------------------
★近事雑報「南陀楼綾繁のホンのメド」
 →本をめぐる情報+アルファの雑談です。杉浦康平トークのお知らせ。
★「大阪豆ごほん」柴田尚美(おまめ)
 →北堀江のふたつの「本スポット」から届く、楽しくて美味しいお便り。
★「〈畸人研究〉今柊二の読書スジ」
 →『しみったれ家族』も刊行間近。貧乏を描いた小説をご紹介します。
★「酒とつまみと営業の日々」大竹聡
 →各方面で話題沸騰のミニコミ「酒とつまみ」の営業秘話です。大好評。
★「版元様の御殿拝見」塩山芳明
 →新幹線通勤中に毎日一冊は本を読む男が版元の社屋を徘徊します。
★「かねたくの読まずにホメる」金子拓
 →買ったときから、いや手にしたときから読書ははじまっているのです。
★特別寄稿「『中井正一のメディア論』を読む」福嶋聡
 →ジュンク堂の名物副店長が長大な中井正一論を丹念に読み解く。

*本文中の価格は、すべて税抜き(本体)価格です。

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■南陀楼綾繁のホンのメド 
新刊、古書、マンガ、雑誌、ウェブサイト、書店、イベントの近事雑報
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【トピックス】
★杉浦康平トーク
 デザイナー・杉浦康平の初の対談集『アジアの本・文字・デザイン』(トラ
ンスアート)の刊行を記念して、「アジアに驚く!!」と題する杉浦康平と津
野海太郎のトークセッションが行なわれます。中国、韓国、台湾、インドの
デザイナーたちとの交流を語ります。当日は、豊富な図版を駆使したスライド
上映もあり。
2005年8月7日(日)15:00〜17:00(14:30開場)
会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
定員:120名様
入場料:¥800(税込)電話予約の上、当日精算
電話予約&お問い合わせ電話:03−5485−5511

★小林章『欧文書体』刊行記念セミナー
 こちらも、ABCでのセミナーです。ドイツ・ライノタイプ社でタイプディ
レクターをつとめる小林章氏が、その知見をわかりやすくまとめた『欧文書体』
(美術出版社)の敢行を記念して、「間違いだらけの書体選び」と題するセミ
ナー&サイン会を行ないます。日本の中で見かける「変な欧文組版」の典型的
な例と、海外の書籍とを比較して、なぜ日本のものは読みにくいのか考えます。
また、製紙会社の広報誌の中で紹介された書体の分析を紹介し、タイポグラフ
ィの根の深さをはかります。こちらもスライド上映あり。

2005年8月24日(水)19:00〜20:30(18:30開場)
会場:青山ブックセンター本店内・A空間
定員:50名様
入場料:¥1,000(税込)電話予約の上、当日精算
電話予約&お問い合わせ電話:03−5485−5511
受付開始:2005年7月27日(水)10:00〜

今回は短くて、すみません。
このコーナーでは、なるべく幅広く情報を紹介したいので、新刊・展覧会・
セミナーなどの情報をお持ちの方は、南陀楼までお送り願います。

なお、ココに載せられなかった新刊、イベントなどの情報は、随時以下に
掲載しています。ときどきご覧ください。
「ナンダロウアヤシゲな日々」
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/

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■大阪豆ごほん  柴田尚美(おまめ)
(20)箸からはじまる民芸のはなし
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 箸を買った。先月にひとつ、今月もまたひとつ。そんなに箸ばかりどうする
と思うが、出合うと買わずにいられない。何故だろう。自分の命を支える食べ
るという行為に関わるものだからだろうか。

 箸によって料理の味がどんなに違うものか。二十歳の時、中国に行って初め
てそれを体験した。丸くて太くて上から下まで同じ太さの中国の箸。箸先が太
いからつかみにくい。だから箸を短く持ってしまう。口に入れた時になんとな
く雑な感じがした。強い火力で作った力溢れる料理を口にするのに適した箸な
のかもしれない。同じように韓国では火鉢の箸のような細いステンレス箸に戸
惑ったけれど、口に箸が当たる時の箸の温度や質感とともに食べることで韓国
料理が味わえた気がした。こんなふうに箸によって味が変わるから、その日の
食事ごとに箸を変えて楽しんでいる。毎日同じ箸を使っているのなら一度違っ
た箸で試してみてはどうでしょう。どんなに違うものか。

 箸についてこんなに長々と書いたけれど、実は箸に始まりスプーンにフォー
ク、レンゲに箸置き食器に湯のみなど。これは台所編。わらじを買った。竹皮
に本藍染めの鼻緒……。幼い頃から暮らしまわりのものが好きで、衣類や装飾
品にはあまり興味がなかった。新しいものより古いものに惹かれたし、使いこ
なされたものが好きだったから祖母の家は宝の山に見えた。

 祖母が亡くなった時、叔母たちが見向きもしなかったものを私がもらい、空
家になったその家に仕事場兼住まいとして14年間暮らした。家具も食器もほ
とんどそのまま、胴の茶筒を撫でるように昭和の暮らしを愛おしんだ。その間
に柳宗悦を知り、バーナード・リーチを知り、河井寛次郎、浜田庄司、富本憲
吉を知る。なぜ祖母の家が好きなのか、なぜ日用雑器に惹かれるのか、その世
界を知ることによって自分を知っていく。行ってきますと玄関を出る。たくさ
んの情報や動きに触れ、ときどき見失いそうになる。ただいまと帰り、安全な
自分の空間へ入り、お気に入りの器と箸で食事をしても気持ちがザワザワする
時、本棚から取り出すのが民芸の本だ。気持ちが落ち着き、自分の中心が戻る。
そしてまた明日も中心を保つために箸を買い、わらじを買うのかもしれない。

外村吉之介『続・民芸遍歴』朝日新聞社、出川直樹『人間復興の工芸』平凡社、
河井寛次郎『火の誓い』講談社文芸文庫、小林多津衛『民芸はなぜ大切か・民
芸と教育・民芸と世界平和』

〈しばた・なおみ〉小冊子「おまめ」発行人。 ショップ「おまめ」店主。
豆本製作。

ショップ「おまめ」
〒550-0014 大阪市西区北堀江1-14-21 第一北堀江ビル4F
地下鉄四ツ橋線四ツ橋駅下車6番出口西へ徒歩2分/地下鉄長堀鶴見緑地線西
大橋駅下車徒歩5分
http://homepage1.nifty.com/omame/

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■〈畸人研究〉今柊二の読書スジ
(7)「ぼろは着てても心は錦」
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 今年はどうにもこうにも出版が立て続いていて、『定食バンザイ!』に続い
て、現在は『しみったれ家族』(ミリオン出版)がまさに佳境(8月に出ます)。
この本は平成の貧乏人はどうなのかということを具体的に記したものです。

 今と昔の貧乏の違いの一つに、昔の貧乏な人のなかには、「子供に学をつけ
て、貧乏脱出をはかろう」という人々がいたことでしょうね(まあ今もいるで
しょうけど)。特に戦前は今とは桁違いに貧富の差が激しかったので、貧乏脱
出は切実な問題でもありました。そんな貧乏脱出の一つの方法として、学費が
かからない師範学校に入って先生を目指すというのは比較的メジャーな方法だ
ったようです。

 早乙女勝元『わが街角』上・中・下(新潮文庫)にもそんな少年が出てきま
す。戦前から敗戦までの下町を描いたこの小説のなかでは、主人公のお兄さん
の日出夫が昼間は中学で給仕をやりつつ、同じ中学の夜間に通った後、師範学
校の寮に入るという設定でした。しかし、この小説は早乙女先生の大テーマで
ある東京大空襲の描写の圧巻ぶりもさることながら、主人公の家庭の赤貧ぶり
も実に読み応えがあります。母親が必死で稼いだ内職のお金をたまに家に帰っ
てくるオヤジが「投資する」といって、根こそぎ金を持っていって、みんなで
途方にくれるシーンとか、涙が出てきますねえ。

 ちなみに、滝田ゆうの大名作『寺島町奇譚』(ちくま文庫)と世界がかぶる
ので、こちらと一緒に読むと味わいが深まりますぜ。

〈こん・とうじ〉畸人研究学会主幹。
雑誌「創」で9月号より、雑誌付録に関する連載開始!

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■酒とつまみと営業の日々  大竹聡
(26)飲んでないで働けって!
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『酒とつまみ』第5号の営業活動は順調だった。本は滞りなく納品できてい
たし、どっさりと返品が戻ってくることもなかった。本来ならこのあたりで、
もっと抜本的な営業のテコ入れなどして然るべきなのだろうが、然るべき判断
など金輪際できないのが、私のちょっとした特徴なのでもある。だから、注文
があれば荷造りして送るなり、持参するなりを繰り返し、思いついたように新
規書店の開拓に行くという具合だった。

 が、5号発売から6号までの間は、なんだかとってものんびりしてしまった
のだった。5号が出たのが6月の末だったが、今当時のメモを見返しても、7
月、8月の2ヶ月間は、営業はちょぼちょぼやるものの、取材・編集となると
まったく手を付けていないのであった。創刊時にはできれば3ヶ月に1回は出
したいと思っていたのだけれど、本が出た直後の2ヶ月間なにもしないのでは、
3ヵ月後に次号が出るわけがない。

 何をしていたのか。暑いから、ビールを飲んでいたのだ。そして、10月にも
なれば、今度は秋風が心地よいからビールや焼酎を飲んでいたのだ。私だけの
ことではない。カメラのSサンも、編集Wクンも同様である。特にSさんはこ
の秋に転機を迎えていて、なんだかんだいいながらドバドバと、とにかく大量
に飲酒していた。
 まあ、小誌編集部としては酒を飲むことがすなわち、企画立案であり取材で
もあるのだから、毎日飲んだからといって、その一事をもって責められるとい
うものでもないのだが、飲み方がいけない。

 たとえば11月初旬の某日。小誌連載『つまみ塾』の試食・撮影会で昼間から
通算10時間飲みを敢行した翌日は、仙台で仕事があった。夕食時に同行の編集
者さんとちょいとばかりというか、ビールをグビグビ飲み、帰りの新幹線の車
中でまたビールを飲み、前日のダメージもあるっていうのに東京駅から有楽町
へ直行して『ロックフィッシュ』に立ち寄る。もう、この時点で、企画も立案
できないし、取材もヘッタクレもあったもんじゃない。

 そしてもうひとつ。ああ、そこには、カメラのSさんがいたりするんである。
決してお待ち合わせなどではない。よーよーよー、オツカ(お疲れさん、の意)
なんて言いながら、Sさんももう出来上がっている。時刻は12時過ぎ。そろそ
ろ終電なんだが、出会ってしまったが運の尽き。ハイボールを2杯飲んだとこ
ろで終電はなくなり、タクシーにするんですかと聞くと、そんなもったいねえ
ことするくらいなら始発まで飲む、ときた。結局始発までなんとか付き合って、
早朝の新橋まで歩くときにはもうフラフラ。アイデアなんぞひとつも浮かばな
いし、浮かんでも忘れてしまうし、もちろんこの間、校正紙を読むでもなく、
原稿だって1文字もかかない。
 出ないわけですよ、最新号が。このようにして、2004年の秋は更けていっ
たのだった。

〈おおたけ・さとし〉酒とつまみ編集発行人
当初5月を予定していた第7号の発売はどうやら8月初旬になりそうです。こ
の号からは全国の書店にてご注文いただける体制になる予定ですが、詳細が決
定しましたら弊誌HPにて告知をいたします。
http://www.saketsuma.com

ついにブログに進出!「『酒とつまみ』三昧」、見てね。
http://blog.livedoor.jp/saketsuma/

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■版元様の御殿拝見  塩山芳明
(34)朝日出版社の巻  首都高速脇の淫水焼けビル
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 エロ漫画界は昨今、人妻熟女物ブーム。と言うか、成年マーク付きロリ系漫
画誌や、風俗系コンビニ雑誌の急激な落ち込みで、雑誌コード持て余した版元、
するコトねえ低能編集、ダブついてたエロ劇画家が、無理矢理デッチ上げよう
としてる“幻のブーム”。秋口には完全終息する予定だが、筆者も無節操に便
乗、右手で美少女、左手に熟女の2刀流の日々。発情盛りの10〜20代のガキ、
立ちが悪くなった父親世代にあたる、40〜50代の初老男共を同時に商売相手に
(「一家で親子が…」と考えると少し楽しい。うれしかないが)。

 中高年読者のリクエストハガキは意表を突く。もっとデブを、腋臭持ちをと
(もちろん脇毛付き)、その即物的要求は底なし(当然、精神面への注文はゼ
ロ)。時々、乳輪が大きく、濃い色をした女性を――てなマニアックな意見も。
そんな際に思い起こすのが、首都高速は西神田出入口横の、朝日出版社の6階
建てビル(千代田区西神田3-3-5)。

 こげ茶色のレンガで前面一帯をとの表現も可能だが、我が業界的に言えば、
“首都高速脇の淫水焼けビル”だ(本連載でも取り上げた、祥伝社と大洋図書
グループビルの、中間に位置するイメージのせいも)。それより何より、宮沢
りえのふんどしヌード以来(『サンタフェ』)、同社のビルはこげ茶色でもチ
ョコレート色でもなく(ニューアカ時代の事なんざ、もう誰も覚えてねえよ)、
“INSUIYAKE”なのだ(色白な宮沢りえには気の毒な気もするが、も
う20 年もすれば、あんたの乳輪も巨大化、下手すりゃ毛も生えて来る。ま
あ耐えてくれよ)。

 向かって右隣が錦明印刷(道1本隔てて祥伝社)。左隣、地味なビルの隣は、
鵜澤徽章製作所の、都庁指定の文化財級の3階建て物件(まだ人影あり)。“徽
章・メダル・カフス・タイ止メ・製造卸”の色褪せた看板文字が、いい味を付
近に振りまく。

 ビルの色こそ猥褻だが(オメ−が言ってるだけだよ!!)、首都高速との間の
道は、広い割に都心とは思えぬ程交通量がが少なく、真っ昼間でも静寂(首都
高速下の川沿いには、本や雑誌の拾い屋さんしてるホームレスが3〜4人。冬
場はともかく、今は涼しくてしのぎやすいかも)。ビル入口には朝顔のツルが
密生。壁面の“荒淫色”に、紫色の花がよくフィット。ビル上部に朝日出版社
と並び、BOOKMAN-shaの文字。系列版元で、受験参考書や語学関係が
主らしい が、両社の差異はよくわからない。

 最近の出版物。『クボジョンのえいごっこ』(久保純子)。『鏡の国のアリ
ス』(ルイス・キャロル・山形浩生訳)。『裸の貴婦人』(杉本彩・トキナオ
ミ)……。ブックマン社同様に版元イメージをくくりにくいが、英語や囲碁関
係の手堅い実用書で安定した収益を上げる一方、余力で軟派物写真集等、一般
向け出版物で穴を狙ってる感じ。小遣いの範囲でしかギャンブルしない、小心
者亭主――そんな堅実さが淫水焼けビルの彼方から、ほのかに匂って来る(甘
酸っぱさ等とは無縁。使い古されたそろばんの香りか?)。

 社員には安定してていい勤務先かも知れないが、読者にすれば役所みたいで
退屈至極な版元。もう20年位同社の本を買ってないが、何の不自由もない。
やはり淫水焼けビルは買い被りで、“小心者亭主の毛が生えて黒ずんだ乳首ビ
ル”あたりが、妥当な線だったか?

〈しおやま・よしあき〉エロ漫画編集者。編プロ「漫画屋」を率いる。著書
『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(一水社)。なお、この連載に関しての批
判・苦情・お叱りは筆者本人まで、どうぞ(ただし、謝るとは限りません)。
mangaya@air.linkclub.or.jp
http://www.linkclub.or.jp/~mangaya/

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■かねたくの読まずにホメる 金子拓
(35)どこから読めばいいのか
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庄野潤三『鉛筆印のトレーナー』福武書店、1992年5月、1400円(品切)
庄野潤三『さくらんぼジャム』文藝春秋、1994年2月、1900円(品切)

 遅まきながらわたしは今年一月に文春文庫に入った『せきれい』を読み、庄
野潤三のいわゆる「老夫婦物」に魅せられた一人である。

 この「老夫婦物」は、現在新潮文庫に入っている『貝がらと海の音』を第一
作として毎年書きつがれ、今年新潮社から刊行された『けい子ちゃんのゆかた』
で十作を数える。わたしが読んだ『せきれい』はその第三作目に当たる。

 書きつがれているうちの第三作目とはいえ、これを読んだために庄野ファン
になったくらいだから、単独でも楽しめるのである。ところが性分としてわた
しはこれが許せない。やはり続き物であれば、最初から順繰りに読まなければ
気がすまないのだ。


 とすれば素直に『貝がらと海の音』から読み出せばいいものを、庄野潤三の
世界を追ってゆくうちに、彼は「老夫婦物」以前にも同様に自分の家族を描い
た小説を多く書いていることを知ってしまったのが運の尽き。
 その代表が、読売文学賞を受賞した『夕べの雲』(講談社文芸文庫)だろう。
名前こそ別のものになっているが、このとき長女は高校生、男の子二人はまだ
小学生だった。さらに『インド綿の服』になると、結婚して子供を産み(つま
り庄野さんにとっては孫になる)親とは離れて暮らす長女一家との交流が中心
になる。ここまでは読んだ。

 さらにここ数ヶ月で、さいわいにも『鉛筆印のトレーナー』『さくらんぼジ
ャム』という二冊の長篇小説を手に入れた。この二作は、庄野夫妻の次男に生
まれた女の子フーちゃんを軸に、でも見るかぎり「老夫婦物」と変わらぬ色合
いの物語が綴られているようである。フーちゃんは庄野さんにとって唯一の女
の子の孫ということになるらしい。『鉛筆印のトレーナー』では四歳で、『さ
くらんぼジャム』になると小学校に入学する。

 庄野さんは『貝がらと海の音』を次のような意図をもって書き始めた。

  子供が大きくなり、結婚して、家に夫婦が二人きり残されて年月がた
  つ。孫の数もふえて来た。もうすぐ結婚五十年の年を迎えようとして
  いる夫婦がどんな日常生活を送っているかを書いてみたいという気持
  ちが私にあり、……(新潮文庫版『貝がらと海の音』あとがき)

「結婚五十年」はともかく、夫婦二人きりの生活ということであれば、すで
に『鉛筆印のトレーナー』『さくらんぼジャム』だってそうであり、であれば
「老夫婦物」の境目はどこにあるのか、判然としなくなる。遡れば『夕べの雲』
にたどりつき、もっと遡りうるのかもしれない。

 ふう。とりあえず作者が言う「老夫婦物」第一作にたどりつくまでには、こ
の二冊を読まなければならない。でないと自分が納得しない。はたして庄野さ
んの執筆ペースに追いつくためには、あと何年かかるのだろうか。まだまだ先
は長い。

〈かねこ・ひらく〉サイト「本読みの快楽」運営。本業は日本史研究者。だん
だん暑くなり、エアコンのない本置き部屋(兼PC部屋)にいるのがつらくなっ
てきました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kinko/index1.htm

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■特別寄稿 ロング書評  福嶋聡
いまこそ、中井正一の思想を問い直すべきだ
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後藤嘉宏『中井正一のメディア論』学文社、2005年1月

 まず第一編「問題の所在と方法」において、著者が中井正一に挑むにあたっ
ての方法論が詳しく述べられる。著者自身「はしがき」で「いささか冗長の感
もある」と述べるこの序奏部は、幕が開く前に舞台裏を見せられる「言わずも
がな」の感がないでもないが、一人の思索者とそのテキストに真摯に向かい合
う姿勢として、大いに共感でき、参考になる。

 その方法論とは、第一に徹底したコンコーダンス作りである。それは、本書
で展開される中井正一論の柱となる「ミッテル」「メディウム」を中心に、中
井の使う概念の諸テキストにおける使われ方、異同を丹念に拾い上げていく、
いわば内在的な検討である。矛盾やブレが少なくない中井のテキストに対して、
それは必要で有効な方法であると思われる。
 第二に、テキストを中井の人生や時代状況との関わりの中に置いて見る、マ
クロな視点である。西田幾多郎や三木清、戸坂潤との交流の中、治安維持法違
反で検挙された戦前、国立国会図書館副館長であった戦後のさまざまな実践を
通じて思想形成した中井のテキストを読むとき、それも不可欠な視点であろう。

 そして第三に、中井正一のメディア論を、現代のメディア状況に於いて見る
試みである。実は、インターネットについて論じる時に中井正一の名を挙げる
人がどうして余りいないのか、ぼくは以前から不思議に思っていた。「全国の
図書館の本のカードを一つのところにあつめるところのユニオン・カタローグ
(綜合目録)を通して、全米の図書館の本の存在が一目で分かることが可能で
あることによって、国家全体を一丸とした知識網であり、インフォメーション・
センターとなることができたのである。」(美学入門)、「図書館自身が、そ
れぞれの国の、インフォメーション・センターとして、大いなる国家組織のも
とに一つの連絡網として、その組織をもとうとしていることにある。すなわち、
綜合目録をつくることによって、換言すれば、その国の図書館がいかなる本を
お互いにもっているかを知ることができるところの共通の目録をもとうとして、
全世界の図書館はその活動を開始している。」(図書館の意味)という中井の発
想はまさにインターネットの先取りであり、もしも現在の状況を中井が目の当
たりにしたら、と想像するだけでワクワクする。マクルーハンなどと絡めなが
ら中井正一のメディア論を語る本書第四編「媒介者の権力性―中井正一と現代」
を、だからぼくはとても面白く読んだ。

 さて、本書全体を通じて焙り出されるのは、何よりも中井正一のさまざまな
二重性である。本書の中井読解の鍵となる「ミッテル」「メディウム」という
ふたつの「媒介」に対する評価の二重性、西田・三木評価における二重性、マ
ルクス主義(者)とのつきあい方の二重性、それは裏返せば利潤機構への態度
の二重性となる。本というメディアに対する評価にも二重性があり、「知識人―
大衆」観の二重性は戦前の「世界文化」「土曜日」発行や、戦後の尾道市立図書
館、国立国会図書館における実践経験と深く関係する。それらの二重性は、確
かに中井正一の思想に曖昧な部分を残し、残されたテキストの読みを難しくし
ている。しかし、そうした二重性こそ、中井の魅力であり、そのテキストにリ
アリティを与えているとも言える。

「中井の思想は普段から矛盾やブレが少なくない。それが彼の柔軟性の現われ
であるし、彼の周りに多くの人が集まってきたことの反映でもある。そのよう
なブレが日常あるだけに、ちょうど車のドライバーが、ハンドルを少し遊ばせ
てわずかに左右に動かした方が、直線道路を安定的に走行するのによいとされ
るのと同様、大きなブレは少ない。その核となるのが恩師深田康算の、芸術が
学術と道徳から独自の、自由な領域でありつつ、それら二つからまったく切り
離されてしまってはいけないという芸術感であったように思われる。」(本書P411)

 たしかに「理論面から考えて、中井には本来(大衆と知識人の)二分法はな
いという基本認識」があったが、「他方、現実には二分されるという状況認識」
もあったと後藤は言う(P114)。中井正一の二重性は、間違いなく中井自身が
自らの実践の中で体得した二重性であったが、一方で中井が依拠したカントの
純粋理性と実践理性の二重性にも遡る。カントを批判的に継承したヘーゲルは、
「理性的なものは、現実的である」と言い切りながら、「現実的」になった「理
性」が必ず蒙る「汚れ」を、誰よりも見抜いていた。「中井の嘘言の容認は、
単純に何でもありの嘘言というよりは、真実が括弧付きの真実、生煮えのイデ
オロギーから、本当に血肉と化したものへと転じるための、一つの媒介項とし
ての嘘言の容認である。」(P411)ことは、そのことと通底すると思う。その
「嘘言」についても、中井は一方で容認しながらも、一方で否定する。

「個人の「確信」の時点からふり返ると「嘘言」である「主張」をし、しかも
その自分の「主張」への判断権利を他者にゆだねる。自分の「主張」が「謬ま
り」に転じる可能性を認めることで、はじめてコミュニケーションは双方向に
開かれる。」(P95)
「直接に商品を作り資本を富ませることはなくても、他者からの認知を求めた
創作や発言、つまり「主張」は、純粋な創作欲をカネに売り渡した状態に接近
させ、資本の増大をめざす商人の眼に作品をとまりやすくする。極論すれば、
利潤機構的社会を止揚しない限り、わが道をひたするわき目もふらずに進む以
外、いずれ金に魂を売り、「嘘言」を吐くし、ジャーナリズムに魂を売る。」(P174)

 だがこのことは、裏返せば、「結局、このように嘘言が他者性の容認と同時
に、商品性の容認へとつながる点に、中井の独自性がある。そのことは中井自
身の実践と照らし合わせてみれば、マルクス主義者と自由主義者をあわせた形
で、共同戦線を張り、「世界文化」や「土曜日」を刊行したこととも、あい通
じる。つまり特定の理論だけを教条主義的に信奉しない点で、嘘言、他者との
双方向的なコミュニケーションを積極的に捉えるし、商品というコミュニケー
ションを歪めるものを、肯定的にも捉えることで、単純な反資本主義の方向に
赴かないからである。」(P202)という中井の魅力につながる。中井正一の思
索は、弁証法のダイナミズムに満ちているのである。

 本書が終始こだわる「ミッテル」「メディウム」という「媒介」概念につい
て言えば、「(大衆と知識人の)二分法はないという基本認識」、「嘘言」の否
定という側面は、より直接的なコミュニケーションを目指す「ミッテル」に親
和性がある。レンズが現実をそのまま「写す」(=「移す」、その先には「映
す」ことも見据えている)「映画」という芸術形式に、中井が期待した所以で
ある。
 ところが、面白いのは、中井が全く逆の理由から、すなわち「メディウム」
に親和性を持った理由からも、「映画」に期待している点である。「独りよが
りが商品になる時代、それを防ぎうる芸術の可能性を中井は映画に託した」
(P220)。「映画」がさまざまな役回りの集団による作品である限り、たとえ
ば脚本家や監督の「独りよがり」が通用しないからである。そのことは中井の
初期の作品である「委員会の論理」にも通じる。そこでは、「嘘言」は一定の
役割を演じる。
「自分の「確信」を人は肯定する思いが強いが、それを「主張」に高めるには
その肯定の気持ちを抑え、その意味で「嘘言」を吐き、ひとまず肯定・否定を
保留する。」(P295)

「映画」においても、「委員会」においても重要なのは「他者性」の「媒介」
なのだ。「本」というメディアもまた、「他者性」の何重もの「媒介」によっ
て成立する。

「書かれることで紙という媒体に媒介され、他者性をもち。紙切れに用件を書
いたメモは他者への伝達を目的とするし、紙切れに発想を書いたメモは後の時
間の自己への伝達を意図する。書いた時点の自己とは別の自己が、これらのメ
モを再構成して論文を執筆したり、書簡を認めたり、記事を書く。……そのよ
うな原稿も雑誌や新聞に採用されるかどうかは、……他者が決めるし、彼らは
想定される読者や現実の読者の声を、多かれ少なかれ、代弁する。またそのよ
うな論文や記事を再構成して本を構成するには、やはりそれらを書いたときの
自己を相対化してみつめる自己の視点が必要となる。さらに草稿レベルで本を
構成しても引き受ける出版社があるかどうかは、編集者という他者の媒介によ
って決まる。結局、資料の媒介性とは、他者性が累加した結果である。そして
そのような他者性としての媒介性の対極に位置するのが、写しとり映しだすと
きの媒介項が小さくなるという意味での、透明な自己という幻想である。」(P396)

 国立国会図書館副館長としての戦後の実践の中で、確かに中井は「機能概念
としての図書館」を主張した。だが、インターネット時代を予見するようなそ
の発想を担保するのは、どこかに「本」があるということだった。図書館が買
い支えることによって「良書」の刊行を可能にするという構想も、中井にはあ
った。
 一方で中井は、「資治通鑑」で読んだ中国史における「諫官」の役割を、図
書館員に課す。「「メディウムに支えられたミッテル」の媒介をする媒介者=
知識人としての役割をする諫官=図書館職員という役割図式が、想定される。」
(P329)「資治通鑑」においてのように死をも賭せというわけではないが、戦
後民主主義の黎明期において、国会議員に対して必要な資料提供と、その前提
となる資料選別を、中井は図書館員に課したのだ。これもまた、今日の「ビジ
ネス支援図書館」の先取りといえるが、同時に「本」に更なる「他者性」を上
乗せする契機でもある。「さらに図書館は、ゲートキーパー機能によって選ば
れた資料である出版物などを、さらに図書館資料として選定する、二重のゲー
トキーパー機能をもつので、より媒介性の強いメディアである。このようなゲ
ートキーパー機能によって選ばれた媒介物こそが、中井の表現を用いるならば、
メディウムに相当する。」(P498)

 こうした「メディウムに支えられたミッテル」というメディア概念は、中井
がさまざまな実践の中でたどり着いた地点といえる。その紆余曲折(言葉を変
えれば「弁証法」)こそ、「中井正一のメディア論」が、今日において意味を
持つ理由、本書でいえば、第四編「媒介者の権力性―中井正一と現代」が成立
している所以だと思う。
 
 先に、中井の思想をインターネット時代を先取りするものと書いたが、重要
なのは中井の予見性ではなく、メディアにたいする両義的な評価、言い換えれ
ば実践の中での中井の思想的桎梏そのものなのだ。「知識人と大衆の二分法は
ない」という認識のもと、読者との双方向のコミュニケーションを図った「土
曜日」などの実践、レンズが現実をそのまま「写す」「映画」という芸術形式
への中井の期待は、媒介性が限りなく小さくなり、媒体が限りなく透明になっ
ていく「ミッテル」としての媒介を、確かに目指している。
「「実体概念」としての図書館から「機能概念」としての図書館へ」という標
語もそのことと親和的である。しかし「機能概念」も、どこかに本が実在しな
いと成立しない。このことはインターネット時代の今日でも同じで、身近な例
でいえば、ネットで本の所在を検索しながら、それを近くの分室に届けてもら
って借りてきて読む、というのがぼくの図書館利用法である。

 また、「メディウムとしての中間者の全面的排除は、後述するように「衆愚
政治」に近づく。他方、時代状況は中間者の機能の縮小へと向かう。その趨勢
に配慮しつつ、新たな状況のなかで、いかにして中井のいうメディウムあるい
は「ミッテルに支えられたメディウム」に相当するものを作りあげるかが、わ
れわれの課題となる。具体的には「ミッテルに支えられたメディウム」は、対
等な立場でのミッテル的議論をした上での、体系なり本なりの成果物の成立な
どとして想定できるであろう。」(P375)

 インターネット時代において、誰もがさまざまな情報にアクセスでき、誰も
が自由に意見を述べることができる、直接民主制をも視野に収めうるような言
説も目立つ。情報へのアクセスの速度は圧倒的に増大し、発信の容易さも然り
である。中井が目指した「双方向性」、透明な「ミッテル」の実現ともいえる。
しかし「受け手の時間資源は有限であり、依然として稀少」(P471)であること
を考えれば、やみくもな情報の氾濫が即望ましい状況とも言えない。「結局その
状況は、西垣通の「「情報の洪水」という、新種の焚書」を生みだす。」(P516)
「他者性」の何重もの「媒介」によって成立する「本」というメディアの重要
性が、こうした状況でこそ、改めて見直されるだろう。「そもそも時間的遅延
のメディアである本は、変化の早い現代社会に不適応な側面がある。逆にいう
と、そうであるからこそ、時代に流されないために時間的遅延の媒体が必要で
あるともいえる。」(P424)
 一方、「本という情報媒体も商品であるし、この世界も利潤機構に支配されて
いて、そのような歪みののりこえは、双方向的コミュニケーションによっての
み可能なのである。したがって、本が消費され、双方向的な批判の素材となり、
新たな本の生産を促すのでなければ、商品であることの歪みは是正されえない
ともいえる。」(P286)
 中井正一の提唱する「メディウムに支えられたミッテル」は、インターネッ
ト時代の今日においてこそ問い直されるべき概念である。

〈ふくしま・あきら〉
1959年、兵庫県生まれ。1982年、ジュンク堂書店入社。サンパル(神戸店)
6年、京都店10年の勤務ののち、1997年に仙台店店長。2000年からは池袋
本店副店長をつとめる。著書に『書店人のしごと』『書店人のこころ』(以上、
三一書房)、『劇場としての書店』(新評論)がある。

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「しみったれ家族」
自分は中流でなくなったと勝手に思いこみ、じゃあ自分は何だと考えたところ、よくわか
| COCO2のバスタイム読書 | 2006/04/09 2:57 AM |
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